柳橋
東芝—EMIの堂山社長と暑気払いで柳橋の天ぷらやにでかけた。
新潮社刊『池波正太郎が残したかった「風景」』という本の冒頭に、柳橋のたもとを着物姿くわえ煙草で歩いている池波さんの写真が掲載されていて、それはその天ぷらやの店先だった。その本の中で池波さんは、生まれ故郷の浅草そして上野かいわいにはよくでかけるが最近は柳橋に立ち寄ることがある。柳橋の花街も今は見る影もないが、それでも隅田川にぶつかる神田川に架けられた柳橋の風景はむかしとかわらないと書いている。ここからは天ぷらやのくだりを本から抜粋してみよう。
「川辺りの天ぷら屋へ上がって、仕度ができるまで、神田川に面した小座敷で酒をのみながら待っていると、なにやら船宿の二階にでもいるような気持ちになってくるのだ」
その天ぷらやに堂山氏を招待した。
行ってみると建物があたらしくなっていた。あの風情ある建物が建てかえられていた。二階の小座敷にあんないされるとおかみが顔をだした。
「いつあたらしくしました」
「去年の12月です」
「知らなかったなあ」
「ご案内さしあげてますよ」
「はがきがきたのはおぼえていますが、いや時節の挨拶はがきかとおもってました」
でも、さすが食通でとおった池波先生のおメガネにかなった天ぷらやで、あたらしくはしたがビルなどには建てかえず木造建築で、以前の店の雰囲気はたっぷりと残している。
仕度ができましたと案内されると、いつものように大将がカウンターのなかに座っていた。この頑固一徹な親爺は、無愛想な風貌で客に自分からべらべらと話しかけることはいっさいしないが、客が話しかけたことは大きな声で丁寧に答えてくれる。この親爺はキリンの「一番絞り」のコマーシャルに天ぷらやの親爺役で登場したことがあるのでおぼえている人もいるかもしれない。
店の建てかえは、この昭和初期の家をを直す大工が年をくってしまって、もう手を入れる職人が誰もいなくなったんで思いきって建てかえましたとのこと。
池波好みの天ぷらのいろいろを紹介しておく。
えび。ふきのとう。たらのめ。めごち。きす。あわび。
そして最後にかき揚げ天丼と赤出し。香の物。