2006年11月10日
上海からもどった翌日の11月3日の朝、那覇へ向かっ
た。那覇空港から那覇市のホテルに向かうタクシーの中
で携帯が鳴った。出ると岡崎の中学の同級生のYからだ
った。
「Kが死んだぞ。一昨日のことだ。1週間前に主治医か
ら、会いたい人がいるのであれば今のうちに会ってお
きなさいと言われ、俺とAさんとSさんがKに呼ばれ
会ってきた。身体は衰弱して痩せ細っていたが、頭は
はっきりしていて、学級委員やっていた昔とかわらな
かったよ。これでお別れだ。あと1週間の命だと思う。
長い間の友人としてのつき合いをありがとう」
と言って、Kは1週間後の1昨日(11月1日)この世
を去った。1日といえば、私は上海を訪れた日だった。
午前中に息をひきとったというから、ちょうど飛行機の
中にいる頃だろう。
岡崎市甲山中学2年7組の一番のできがしらはSさんと
いう女生徒で、2番目は男子のKとMの争い。3番手か
ら6番手あたりにうろうろしていたのが岡崎堂でKには
成績で勝ったことがない。
Kは中学を卒業すると建築士をめざし岡崎工業の建築学
科に進級した。高校を卒業し、名古屋にある大企業に就
職するが、4年も勤めていると国立名古屋大学の建築課
を卒業した者にどうしても社内では勝てないことに気が
つき始め、仕事をこなすかたわら会社から帰ると深夜早
朝まで猛勉強をくり返し、1級建築士の資格をとり、建
築設計事務所を起こすが、その猛勉強時の無理がたたっ
て腎臓を壊し、障害10度患者として、25才から人工
透析を受けながら命を永らえてきた。
20代30代の若い頃は、2日に1度の透析にも身体は
十分耐えた。結婚もし、子供も産まれ、折からの土地バ
ブルで小さな個人事務所ながら仕事も順調だった。
こちらも、高校を卒業し東京に出てきたものの先の見通
しはまったくなく、やっと27才になって音楽仕事をス
タートするという時期の遅れもあって、中学の同級生の
Kがそのような健康状態で頑張っていることを、つい忘
れた。
30代後半で、音楽事務所を立ち上げ、なんとかこの業
界でやっていける目処がついた40代前半の頃のこと。
Yから、岡崎の馴染みの寿司屋の2階で同級会をやるか
らもどってこないかと誘いをうけ、その席でひさしぶり
にKと再会した。
透析をはじめてからすでに20年近く経っていた。
Kの顔色は少しくすんでいて、同じ年齢だというのに集
まった同級生と比べてもやや老け気味ではあったが、に
こにこと笑いながら、糟谷ひさしぶりだねえと隣の席に
きてくれ、二人乾杯した。
「お前、酒は飲んでいいのかい」
「うん。酒は止められていないんだ。ただし量がね」
腎臓の機能が停止し、血液中の水分を濾すことができな
いから、人工透析患者は、必要以上の水分を摂ることが
できない。
「2合までは飲んで良いと医者は言うから、飲むときは
日本酒を飲んでいる。ビールだとコップ2杯で終わっ
ちゃうからな。酔わないうちにしまいだから、すっか
り日本酒党だよ」
と、二人ちびちびとやりながら、なつかしく楽しい再会
となった。
日本では、人工透析で生きた最高年数は35年だそうで、
俺はそこまで長く生けないんじゃないかなと思っている
というから、無理しないで身体をいたわりながら日本一
になってくれ、お前ならできるよ。というとありがとう
頑張るよと嬉しそうに笑った顔を今でも思い出す。
それからは岡崎に帰る度にKを訪ねた。
透析歴30年余の命を永らえKは世を去ったが、彼の命
は俺たち仲間の生き甲斐だった。心の中にぽっかりと穴
が空いたようで、一人沖縄にいるのが、たまらなく淋し
かった。