2006年11月21日
元九州朝日放送のラジオディレクターの岸川さんが亡く
なったという知らせがとどいた。
数十年前にこの業界に入ってはみたものの、しばらくは
何をしても上手くいかず、わたくしはアーティストもシ
ングルもアルバムも売ることができないマネージャーで
あった。特に、自分の手で名曲を!とか、ビッグアーテ
ィストを育てるぞ!とかの大志をもってこの仕事につい
たのではなく、ただ食わんが為、生活の為にやっている
に過ぎなかったのだが、そうであってもこんな様子じゃ
食うこともままならぬ、という世の中で一番恰好の悪い
奴であった。しかも、
俺には才能というモノがないのではなかろうか?
と考えるのならまだしも、しまいには、
俺に合っていないんじゃないのかこの仕事は?
などと思ってしまっているふとい奴でもあった。懲りな
い奴でもあった。
そんな、意識も低く力もないうだつの上がらぬマネージ
ャーだったころ。福岡に行くたびにKBCに岸川さんを
訪ねた。
岸川さんは、井上陽水、チューリップ、甲斐バンド、海
援隊などそうそうたる才能が一気にあふれるように湧き
出した1970年代当時の福岡の音楽の最大の理解者と
も言える人で、もう一人の雄・RKB毎日放送の野見山
ディレクターと双璧をなしている人だった。細身の身体
を洒落たスーツでくるみ、どういう分けか頭はパンチパ
ーマ。古き良き時代の男の頑固さが顔いっぱいに現れな
がら、さっぱりとした気性の持ち主で、わたくしの言い
訳めいたつまらない相談事を辛抱強く聞いてくれ、聞き
終わると、
こうすればよかと!
と言ってくれるときの笑顔がなんともまあ素敵な人だっ
た。俺もこういう大人になりたい!と誰もが思ったこと
だろう。この人柄に惚れ、多くの人々が岸川さんを訪れ
た。誰もが岸川さんの世話になったと言っても言い過ぎ
ではなかろう。
あの時代は、全国各地のラジオ局にそういった人々がい
た時代である。前出の野見山さん。広島の村田さん。岡
山の河田さん。大阪の渡辺さん、栗花落さん。名古屋の
塩瀬さん、加藤さん。LF、QR、TBSのキー局はも
とより、仙台の新妻さん。岩手の北口さん。札幌の北島
さん。誰も彼も面倒見が良かった。有名なアーティスト
も無名の新人も分け隔て無くつきあってくれ、そうして、
わたくしのようなダメマネージャーもいつしかなんとか
力をつけはい上がり大人になる事ができたのは、そうい
った全国に居た大人で先輩で兄貴であったラジオ局のひ
とびととのつき合いのおかげである。ところが今はそう
ではないのだそうだ。マネージャーとラジオ局のディレ
クターとの関係がそうではないのだそうだ。だとしたら
マネージャーはいったいどこで大人になるのだろう。売
ったからといって大人にはなれない。人と人とのつなが
りの中で感銘を受けたり、悔しい思いをしながらをくり
返すことによって大人になっていくものなのだ。岸川さ
んの訃報に接し、あらためて時代の終焉を感じた。もう
2度と会うことができない岸川さんと過ごしたあの夏の
日にたまらなく郷愁を感じるのは、わたくし一人ではな
いだろう。
註:この文章は音楽制作者連盟の広報誌「音楽主義」の
12月発売号のわたくしのコラム「岡崎堂書店主人日記」
の原稿に若干の加筆をしたものであります。