2007年2月18日
仕事と云えるものかどうかはいささか疑わしいものである
が、わたくしの初めての仕事はペンキ屋であった。小学校
の5年生の夏だった。
実家の3軒ほど隣にペンキ屋があって、数人の職人を使い
仕事をしていた。わたくしの田舎の愛知県岡崎には、かっ
て繊維業界はなやかなりしころには紡績工場もあり、その
下請けの個人経営の工場もあり、また、トヨタ自動車の下
請けのベアリング工場や電気部品工場もありと工場がいく
つもあった。
盆休みは、それらの工場の稼働が止まる。その時期を利用
して、工場から柱や工体の鉄骨の塗り替えの受注があり、
盆休みはペンキ屋のかき入れ時だった。
盆休みは、ほとんどの工場が同じ時期だから、かってその
ペンキ屋で職人をしていて、今は独立して親方と呼ばれて
いる人もかき集められ、また、全国を歩いて仕事をしてい
る流しと呼ばれるフリーのペンキ職人もかき集められ、人
々が海へ山へと行楽に出かける盆休みの時期には、そのペ
ンキ屋に15人くらいの職人が集まり、通いの職人以外は
泊まり込み、朝から晩までワッショイ・ワッショイのかけ
声が町内中に響き渡るほど多忙を極めていた。
工場の塗り替えは何年かに1回で毎年行われるわけではな
いが、それでもこの時期は注文をさばききれないほど大小
も含めいくつかの工場から注文がきて、途中まで塗り替え
たところで盆休みが終わり工場は再稼働するが間に合って
ない、というクレームも必ず数件あった。
夏の時期は学校も休みで、学校からも注文がくる。学校か
らの注文は、校舎の土台のコンクリート部分にあるちいさ
な通風口にはまっている鉄の桟の塗り換えといった仕事で
とてもそんな現場に職人をまわす余裕などない。
そんな仕事は、ペンキ屋の中学生の長男とわたくしと同い
年の小学生の兄弟が、自転車の荷台にペンキや刷毛やペン
キを溶かすシンナーを乗せ現場に行き、塗り替えをやらさ
れていた。
友達とプールで遊んで家に帰ると、おふくろがペンキ屋さ
んのがお前にたのみたいことがあると言ってるから行って
こいと云う。行ってみると、近くの中学校の通風口の塗り
替えをやるのだが、Yちゃん(同級生)が風邪をひいて寝
込んじゃってるから明日から3日間くらい手伝ってくれな
いか。あんまり渡せないけど小遣いは出してあげる。おか
あさんには話して了解を得てるから頼むよと云う。
小学生がバイトして先生に叱られないかと思ったが、同級
生のYちゃんは家の仕事の手伝いをしてエライと先生が云
ってたし、わたくしの実家がそのころ駄菓子屋をやってい
て、欲しいお菓子は家にあるものを食えと云われ小遣いと
いうものをもらったことがなかったので、コヅカイという
フレーズが新鮮で、母親がいいと言っているならと引き受
けることにした。
ペンキ屋の長男の中学生のKちゃんに云われるとおりに通
風口にペタペタと黄色のペンキを塗った。はじめのうちこ
そ通風口の外側のコンクリートにペンキをつけてしまった
りしたが、そのうちにコツを覚えてペンキを外にこぼさな
くなり、ペタペタペタペタと要領よくやった。黄色だけで
ほかの色はなかったが、なんだか図画の時間のようでもあ
り、器物に落書きをしているようでもあり、やっているう
ちに楽しくなってきた。仕事をしているというよりペンキ
塗って遊んでいるようだった。しかも、塗るとはっきりと
きれいである。上手いねえなんて云われ得意になって塗っ
た。
次の日は、Kちゃんは工場の現場に連れだされたようで、
一人でやってくれといわれ、3日かかったが中学校の通風
口を全部塗り上げた。その時の小遣いは何に使ったかは憶
えていないが、よほどペンキ屋の大将に気に入られたよう
で、よほど自分でもペンキ塗りが気に入ったようで、高校
を卒業するまでの7年間。毎年夏休みにはペンキ屋で仕事
をした。
あの頃は、中学を卒業すると高校に行かず就職をする子供
もいた時代で、子供のような男の子が働いていても別に不
思議なことではなかった。中学生になると工場の鉄筋の工
体によじ登っては、鉄筋を塗るようになった。今では見つ
かれば不法児童就業などと新聞ネタになるのだろう。
高校生になると1人前に年期が入ってきて、たいがいの事
はできるようになった。明日の現場の職人さんの人数の手
配やら、新築の家の床のニスなども任されて塗るようにな
った。
大学に行くのかい。もったいないねえ。腕一本でいくらで
も稼げるぞ。いっそペンキ屋をやらないかィ。
と大将に言われたものだった。まさか、ペンキ屋の跡取り
ならいざしらず、たまたま小遣い稼ぎでやっていたにすぎ
なかったから高校を卒業すると大学へ通うために上京した。
その後、時代は変わり、あれだけたくさんあった工場は、
いくつかはなくなり、いくつかは別の町に移っていき、
建物自体の工法や修繕の方法も大きく変わり、かって盛況
だった盆休みのペンキの塗り替えは需要がなくなり、流し
という日本中を渡り歩く職人も世の中から姿を消し、その
ペンキ屋も大将が亡くなった後、廃業したという。
でもたまに、あのままペンキ職人になっていたらどんな人
生を送ることになったのだろうかと思い出すときがある。