2007年13日
やっと会えた。
親父が夢に出てきたのだ。身近な人や可愛がっていた動
物が死ぬと、数日して夢を見ることがよくあった。遠い
昔のことになるが、まだ学生の頃、小石川の愛知県の学
生寮の屋上から近くの建物が炎上する夢を見た。記憶に
残る色つきの夢はこれが最初だ。火は真っ赤に燃えさか
っていた。夢の中で一緒に屋上にいた同部屋のOの顔が
火にあてられて赤くなっていたことを憶えている。その
屋上にダンがいたのである。ダン、お前どうしてここに
いるんだ? 東京まで来たのか? と聞いてもダンはニ
コニコと尻尾をふってこっちをみていた。
ダンはアイリッシュセッター種の雄犬で産まれてまもな
く親父が家に連れてきた。いかにも高そうな洋犬であっ
たが、只でもらったのか買ってきたのかは親父は言わな
かったので知らない。この犬は猟犬で、獲物を見つける
とポインターがその獲物の居場所一点を見つめ飼い主に
知らせると同様、今すぐにその獲物に向かって飛びだす
ような姿勢をとる。まるで短距離ランナーがスタートの
号砲を待つかのようにである。その姿勢を「セットする」
といって、セッターと呼ばれる中型犬である。ポインタ
ーと違って長毛種でその薄茶色というか濃いブロンドの
毛がきれいな犬だった。なによりも走る姿がアスリート
のようにうつくしい。
家で兄弟に可愛がられていた子犬時代はあっという間に
過ぎ、3年もすると妹やおふくろでは散歩も引っぱられ
てしまい手に負えなくなった。散歩係は中学生のセンジ
君の役割で、学校から帰ると夕方の飯前に連れだし、中
学校の校庭を思いっきり走り回らせた。ボールを遠くに
投げ咥えて戻ってくることを教えた。ボールが投げられ
ると「行け!」という合図がかかるまで跳びたす姿勢を
セットしたまま微動だにしなかった。そうして陽が暮れ
かかる頃まで遊んだ。高校生になってもダンの散歩係は
わたしで、大学に通うために東京へ出てくるとき、これ
から誰が散歩に連れだすのか心配であったが、もうその
ころはダンは老犬になっていて、散歩に連れだしせとせ
がむことはなかった。上京して数年。東京での生活に追
われ田舎のことはいつか忘れがちになった頃、ダンは庭
の隅の犬小屋で静に亡くなった。夢にダンが現れたので、
もしや・・・と思い実家に電話すると
「お前が悲しむだろうから知らせなかったが、そうかい
ダンが現れたかい。お前が帰ってくるのを待っていた
んだろうねえ」
とおふくろが言った。
2回目は友人の田口清が亡くなったときだった。田口は
「猫」というバンドのボーカルで、自分が田口と知り合
った時は、バンドは解散して彼はソロアーティストとし
て活動していた。その当時、札幌のSTV放送の日曜日
の朝の公開ラジオ番組があって、売り出し中の松山千春
がパーソナリティーをつとめていて、結構な人気番組だ
った。田口がその番組のゲストで出たときのこと、松山
千春が、
「僕、田口さんの歌が大好きなんです」
と照れくさそうに田口に語りかけていたことを思い出す。
田口は数枚のアルバムを発表したが、その優しい歌声は
80年代の日本の音楽の時流には乗れず、その後ソロ活
動はゆるやかに終息し、レコーディングディレクターと
して働いた。なかなか子供に恵まれなかった田口に待望
の男児が誕生したのはその数年後のことである。忙しく
てなかなか子供と過ごす時間がなかった田口は、休みと
なれば必ず家の近くの公園で子供と遊んだ。子供もだん
だん大きくなり、田口がこぐ自転車の前に括りつけられ
た座席にのって、公演にあるコンクリートで作られた小
山をいっきに下り降りることをキャッキャと喜ぶように
なった。そうして過ごしていたある日悲劇が起きた。小
山を下り降りる自転車がスリップしたのだ。田口はとっ
さにハンドルを離し子供をかかえたかばったままコンク
リートに頭から叩きつけられ、帰らぬ人となった。30
代の若さだった。田口の葬式で、父親を失ったことをわ
からぬちいさな子供が、大勢の弔問客が訪れているのに
父親がいないので必至に田口を捜しているのが憐れだっ
た。そうして1週間ほど過ぎた或る夜。田口が亡くなっ
た公園のベンチに座り
「君のとーさんは君の命を守ってなくなったんだよ」
と幼子と話している夢を見た。その子供はわたしが言っ
ていることを理解していないようであったが、見てるう
ちにだんだんと急に大人びてきて、髭まではやした田口
の顔になった。ありがとうと田口が言ったところで目が
覚めた。
3回目は飼い猫の「カムイ」。
まだ結婚前の独り者のころ。同僚のOの彼女がブリーダ
ーをしていて、客に頼まれ産ませたヒマラヤンが一匹余
った、20万もするのよこの猫は、今だったら5万円で
いいから譲ってあげるわよとそそのかされ、明日は新潟
明後日は山形と地方のコンサート仕事に追われる毎日で
あることも忘れ、その猫のあまりの可愛らしさに買った
猫。当然面倒など見られるわけのなく、当時つき合って
いた彼女(今のかみさん)に、おんぶにだっこで面倒を
見てもらったのだが、この猫が長生きし、子供が大きく
なるまで生きてくれた。わたしがかかわったアーティス
ト暦で云うと、長渕剛からBOOWY、布袋、松井、山
下久美子、花田裕行、ガラパゴスまでに至っている。亡
くなった夜。夜中に目が覚めると、枕元にカムイがちょ
こんと座っていた。
「おーい!みんな起きろォ。カムイが会いに来てくれた
ぞー」
その自分の声で目が覚めたが、長いつき合いに別れを言
いに来てくれたと今でも思っている。
4回目の夢は名古屋のサンデーフォークの創立者の井上
が亡くなった後のことだった。どういう分けかハワイに
遊びに来ていて、真っ黒に日焼けしてホテルのシャワー
ルームに入ろうとすると先客がいて、
「カスヤ、先にシャワー浴びてるよ」
と声をかけ振り返ったのが井上だった。
「お前。この前死んだんじゃないのか? 生きていたの
か?」
「俺が死ぬわけないだろう。お前と遊びに来てるじゃな
いか」
朝目が覚めたとき。本当に井上がハワイでまだ生きてい
るような感じがしたものだった。
それからしばらくそういった夢は見なかった。亡き親父
の49日の法要も終わり、会社のGさん(爺さんではな
い)に手伝ってもらい、会葬に来ていただいた方やお花
を送っていただいた方々にお礼状を出す作業をしている
時、Gさんに
「亡くなった人が夢に現れるんだがまだ親父は顔を見せ
ないなあ・・」
と話していた矢先の昨晩、親父が顔を出してくれたので
ある。どこかのホテルの一室でのんびりしていると廊下
で大騒ぎしている声が聞こえる。なんだろう夜中に。誰
が騒いでいるんだろうとドアを開け廊下を覗くと、真っ
赤な顔をして大酔っぱらいしている親父が、よーといっ
て現れたのである。その顔は晩年の好々爺のそれではな
く若い顔してたなあ。まだ50代の若さだった。機嫌良
く酒飲んで調子よく酔っぱらっていた。
ありゃりゃりゃりゃ。
「夜中にそんな騒いじゃ迷惑かかるよ。飲むなら部屋で
飲みなよ。何号室だっけ? え? 2300号室?」
と云うやりとりをしたが、まだまだ飲み足らさそうな顔
してたなあ。
死の床に横たわっている親父の顔は、死者だけが保つ独
特の尊厳に満ちていた。その顔が今でも親父を思い出す
度に思い起こされるから、もうすこし威厳ある親父が登
場するかと思っていたが、大酔っぱらいで現れてくれる
なんて、石垣直角の真面目人間でありながら、どこか剽
軽な洒脱を持っていた親父らしかった。