2008年10月7日
司馬遼太郎さんの怪談話。
昭和36年10月に書かれたこの話は、文庫本にして6ペ
ージほどの短い文章だから直接読んでいただくことをすす
めるが、要約します。
司馬さん(サンケイ新聞記者福田定一)が終戦後、新聞社
に勤めると文化部に配属された。新聞社は政治経済社会部
が主流だとの認識からがっかりした。さらに文化部にいく
と、明日から美術評を書けといわれた。
中学の時水彩画を描いたと言うことくらいしか絵に無造詣
は司馬さんは、その日の帰り本屋にたちより「油絵の描き
方」という本を買った。1号というのが葉書大のおおきさ
だと知った以外はなにもわからず、翌日展覧会へでかける。
並べられている絵を観てもなにがなんだかさっぱりわから
ない。(こう書かれているから、きっと抽象画展だったと
思われる)。なにか書いて明日の誌面を埋めなければなら
ない。途方に暮れていると、
「おい!」
と声をかける人がいて、話している内に中学の先輩だと気
づく。先輩は今は絵描きで自分の絵が特選され展覧されて
いると言う。司馬さん、自分の窮乏を話すと、その先輩が
評論してやろうと展覧会を案内してくれた。
特選の絵の前にくると、
「これは評論できない」
というから、司馬さん、自画自賛してもいいんだよと言う
と、こんな話をしてくれた。
戦後、日本に戻ってきて絵描きを志したが、画材、キャン
バス、絵の具などどこにも売っていない。毎日焼け跡の闇
市にでかけるが売っていない。ある時、裏通りを歩いてい
ると葬式に出くわした。その家の前にキャンバス、画材な
どがゴミのように積まれていた。その人は家の人にかけあ
うと故人が残した物ですが、欲しいのならと売ってくれた。
画家は、亡くなった人が描いたキャンバスを白く塗り、そ
のうえに絵を描いた。入選した。翌年も描かれた絵を白く
塗りつぶし絵を描きまた入選した。3年連続で入選するこ
とができたが、どういうわけか入選する度に大病を患った。
肺炎。腸捻転。胃潰瘍。元に描かれた絵となんらかの関係
があるかな・・と思い始めた4年目。新しい絵を描こうと
キャンバスを見ていると、うしろに誰かがいる気配がした。
うしろをふり返ると見知らぬ人が立っている。
「とうとうきたよ」
「えっ}
「その男がきたよ」
その男は微笑みながらその絵を見ていた。
「それでどうした」
「出したよ。そのまま。その男がそのまま出品してくれっ
ていったような気がしてな。だから、この絵は俺が出展
したが元の絵描きの作品だ」
だから評論はできないんだ。
と言ったという話です。
このエッセイのタイトルは「亡霊の抽象画」。
これは「司馬遼太郎が考えたこと」という新潮文庫に収め
られている作品で、司馬さん亡き後に司馬遼太郎記念財団
の編集協力をえて発売されたものです。
ただし自戒としてこの一言をつけくわえよう。
「良書の要約はすべて愚劣なものだ」
というモンテーニュの言葉を。