exciteブログ ExciteホームExcite Musicトップサイトマップ
プロフィール
糟谷銑司(かすやせんじ)
愛知県岡崎市出身

長渕剛、BOOWYのマネージメントを経て、(株)アイアールシートゥコーポレーションを設立。
布袋寅泰、今井美樹らが所属。
平成15年7月から平成19年6月まで社団法人音楽制作者連盟理事長に就任。
文筆活動は、出身地の岡崎に由来して「糟谷岡崎堂」で行う。
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31
リンク
以前の記事
2013年 08月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
2006年 03月
2006年 02月
2006年 01月
2005年 12月
2005年 11月
2005年 10月
2005年 09月
2005年 08月
最新のコメント
http://vimax..
by obat pembesar penis at 23:53
http://vimax..
by obat pembesar penis at 12:50
Hi I am so e..
by moncler co at 08:41
Can you tell..
by vegan uggs uk at 22:20
Right here i..
by cheap ugg at 05:46
Hello I am s..
by ray ban av at 22:50
Howdy I am s..
by parajumper at 05:08
ピアノ買取センター ~ピ..
by ピアノ買取 at 05:12
販売商品 精力剤分野:..
by 神奇山精丸 at 15:39
媚薬:http://ww..
by 媚薬 販売 at 12:41
最新のトラックバック
ギタリズムは止まらない。..
from POP-ID通信。
the who 武道館
from こういちの日記
the who 武道館
from あややの日記
the who 武道館
from 気になるニュースについてブログ
豚足のための豚足が作る豚..
from ユニオンスクエアの窯 ☆ ニ..
大皿焼けました*
from ユニオンスクエアの窯 ☆ ニ..
拝啓*糟谷様
from ユニオンスクエアの窯 ☆ ニ..
豚足の器のご紹介です*
from ユニオンスクエアの窯 ☆ ニ..
東海道五十三次にハッとし..
from ユニオンスクエアの窯 ☆ ニ..
豚足の器*2作目☆
from ユニオンスクエアの窯 ☆ ニ..
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
<   2009年 03月 ( 13 )   > この月の画像一覧
オーパ!
2009年3月30日

オーパ! 開高健:著
この文庫本を前にして、手にとろうかどうかと思
案している。なにしろ字が小さすぎるのだ。

オーパ!は、
開高健のブラジル・フィッシングの旅で、昭和52年8
月の初旬から約70日にわたっておこなわれ、その紀行
文は「オーパ!」と題されてPLAYBOY誌に53年
2月号から9月号まで連載された。写真300点余を収
めた豪華本「オーパ!」が刊行されたのは、連載が終わ
った直後のその秋のこと。いらい2年の間に部数をのば
し10万部を数え、いまも版を重ねている。3000円
近い高額の本が10万部も売れ、なお長い生命を保ちつ
づけているというのは、書物のライフサイクルがどんど
ん短くなっている昨今の出版事情を考ええると、きわめ
て珍しいことだというべきである。その理由は求めてみ
ればそれらしい答えがいくつも用意できるのだろうが、
結局はただ1点、「オーパ!」がおもしろい本だという
ところに集約されるのだろう。
と、オーパ!の文庫本化に際し、菊谷匡祐氏が小さな文
字で解説を書いたのが、四半世紀も前の昭和56年3月
のことで、まだ、あのころは日本人に目力があったのだ
ろう。もちろん菊谷氏は原稿用紙に書いたのだろうから
文字を小さく印刷したのは版元の集英社。発行者の堀内
末男氏は月刊PLAYBOYの編集長か。堀内氏も若か
ったことだろう。


OPA!
何事であれ、
ブラジルでは驚いたり
感嘆したりするとき、
「オーパ!」という。

という言葉があり、本文はこう始まる。

8月18日、夜10時。
わめき声、笑い声、叫び声のひしめくさなかで古風な銅
鑼がガランガランと鳴り、「蛍の光」をマイクから流し
つつ、われらが白塗り3000トンの「ロボ・ダルマダ」
号はペレン市の第14号埠頭をギシギシと身ぶるいして
静かに離れ、沖へむかった。「ロボ。ダルマダ」とは
「無敵艦隊のオオカミ」ということだそうで、怪物じみ
た大江に挑むにふさわしい名前である。その後たくさん
の大小の船の船尾を見たが、たいていはカトリック国ら
しく聖者、聖女、聖地の名をつけ、なかには「ビクトリ
ア・レジア(大オニハス)」とか、ときには「マラリア」
などとひねくれたのもないではなかったけれど、この船
をしのぐような勇ましいのはなかった。

見事な書きだしで忘れえない冒険の旅は始まるのである。

この船は政府直営だが、上・中・下と3つの甲板があり、
部屋は中甲板の食堂の横。カメラ機材、釣り竿ケース、
バッグ・パッカーなどを持ち込むとせまい部屋は物置小
屋のようになる。開高先生はカイコ棚式のベッドにもぐ
りこみ「シャーロック・ホームズの帰還」を読む。
それをこう書く。

読みかえすのはじつに30年ぶりのことである。これか
らサンタレンまで三日三晩の航海だが、たっぷりと少年
時代の回想に浸かるつもりである。友達と奪い合いをし
てむさぼり読んだ遠い夏の日の木陰やハチの羽音などを
この人間嫌いの名探偵はつぎつぎと思いださせてくれる。
ふと眼をあげると、ペンキの剥げかかった古鉄の壁に幼
稚だがきちょうめんな字で、Hidki Watana
beと書いてあるのが見える。ちょっとはなれたところ
に別人らしい乱暴な字体で、Sex Sex!と 走り
書きがしてある。 

次のページには、狭い船内に人、人、人があふれ、荷、
荷、荷物があふれ、その上に何本ものハンモックが吊ら
れていて、そのハンモックに寝ころび、半ズボン、Tシ
ャツ姿でパイプを咥えシャーロック・ホームズを読んで
いる開高健が写真に写っている。あれ? 開高先生寝転
がってシャーロック。ホームズ読んだのはカイコ棚式ベ
ッドじゃなかったのか? とも思うが、まあ、それはよ
ろしい。カイコ棚ベッドじゃ絵にならなかったのだろう。

オーパ!は、
序章
第一章 神の小さな土地
第二章 死は我が職業
第三章 八月の光
第四章 心は淋しき狩人
第五章 河を渡って木立の中へ
第六章 水と原生林のはざまで
第七章 タイム・マシン
第八章 愉しみと日々
蛇足

あーあ読みたい。読みたいが字が小さい。最近の文庫本
は本は文字は大きく印刷してある。昭和の時代の文庫本
は本当に小さい字をつかっているんだなあ。
かといって、豪華本はあまりに大きすぎて手にとってみ
るのも重い。雨の日の釣り師のために、という心境で読
むのもまた一興ではあるが、文庫本でないと旅の話が旅
の友にならないのだ。そこで、S英社のN君に、オーパ!
の文庫本の改訂版をだすようにとクレームをつけること
にした。
ブラジルでは驚いたときにオーパ! という。
突然のクレームで、N君、オーパ! というだろうか?
[PR]
by kasuya_senji | 2009-03-30 19:03 | Comments(1)
カストロとWBC 
2009年3月26日

チェ・ゲバラが中心となって1959年に成立したキュ
ーバ革命は、子供心にもまるで明治維新前夜の西郷隆盛
と坂本龍馬を見てるようでヒーローだった。わたしは叔
父さんが洋画専門館で働いていたから子供の頃から映画
館に通う(只で観られたから)洋画ファンで、同い年の
まわりのガキ共の観る東映や大映、日活という日本映画
のヒーローの鞍馬天狗や白馬童子、赤道鈴之助なんかは、
フン! あれは絵物語だろう? カストロとゲバラは実
在の人物だぜなどと誰よりもヒーローだった。 
ガキ仲間に誘われ親父に頼み込んで切符を買ってもらい
赤道鈴之助を観に行ったことがあるが、最後の最後で正
義の味方・少年剣士赤道鈴之助が悪を倒すために登場す
るシーンで映画館中に拍手が巻き起こったときには、な
んてたわいないんだと白けきった思い出がある。
それはともかく、
WBCはカストロ議長が登場するのが嬉しいねえ。
なんといっても世界ランク1位を誇るキューバチームだ
からカストロ議長もなにかと発言される。
キューバ戦の前では、

「日本チームは精密機械のようだ」

世界1を勝ち取った後は、政府系のウェブサイトのコラ
ムでWBC決勝戦について、こう述べている。

「日韓両チームの質を証明するかのように想像できる限
 り最も緊迫した試合となった」

決勝打を放ったイチローを

「世界最高の打者」

と称えた。
嬉しいじゃありませんか。
この嬉しさは勿論ジャパンのWBC連覇であるが、わたし
のヒーロー:カストロ議長の生の声が聞こえてくる嬉しさ
である。
20世紀を作った世界の歴史上の人物が次々と世を去って
いく。チャーチルもルーズベルトもスターリンも毛沢東も
昭和天皇も鬼籍に入られた。金日成も蒋介石も吉田茂も田
中角栄もアラファト議長も今は亡い。ゲバラもすでに30
年も前に世を去っている。世界史を彩る歴史上の人物はカ
ストロ前議長しか残っていない。そのカストロが野球にな
ると登場するのである。そして我らがジャパンを世界最高
チームと称えるのである。すでに90才を越え自分の命は
あと数年もないだろうとの発言が聞こえてくるが、願わく
ば第3回WBCの決勝はジャパンVSキューバで行われ、
もういちどカストロ議長の声を聞きたいと思うものである。
[PR]
by kasuya_senji | 2009-03-26 13:25 | Comments(2)
未来?
2009年3月23日

もう3、4年前になるか。ちょうど春分のこの時期のこ
と。石垣島で霊媒師に見立ててもらったことがある。
霊媒師といってもみかけは普通のサラリーマンみたいな
人だった。酒場で手相を拝見とだれかれなくやっていて、
たまたま同じテーブルに座っていたので、そのおとなり
の人、わたしだ、もどうぞという感じでみてもらったか
ら、手相見に長けている人の酔っぱらったついでのご愛
敬と受けとっていた。ところが過去がおどろくほど当た
っていた。
自分の人生の中である種決定的な時間があったとすれば、
まずは19才の時。上京した。
26才の時。仕事についた。このころ出会った人と結婚
した。
30才の時。長渕剛と出会った。
34才の時。BOOWYと出会った。
38才の時。独立した。
この19,26,30、34,38という数字がほぼあ
たっていたのだ。もちろんサラリーマン風霊媒師はわた
しのことはなにも知らない。
だれもそうだが、普通は霊媒師という存在に日常を依存
して生きてはいまい。酔客が酔っぱらい相手に手相見ご
っこをサカナに飲んでいるとしか思っていなかったから、
ちょっと驚いた。驚いたがしかし霊媒師は未来のことに
は言及しなかった。そこまで過去が当たっていると未来
はいったいどうなるのか? とも思うが聞かない方が華
だろう。子供が生まれちゃかなわないからな。石垣サラ
リーマン風霊媒師はなにかいいたそうな顔をしていたが、
トイレに行くふりをして手相見はそこで切り上げてもら
った。トイレから戻ると案の定となりの男の手相を見立
てていた。

霊媒師君から解放され一杯遣っているそのときに、名古
屋で会った占い師のことを思い出した。その人は20代
後半の女性で、身長は170㎝を越え、スリムな体型の
とてもすばらしいプロポーションを持っていて、しかも、
美人だった。一緒にいた友人の昔からの飲み友達という
ことだった。
お前はこんな美人の飲み友達がいるのかよう。
さぞかし酒がうまかろうことよ。
お前は医者に酒とめられてたんじゃなかったのォ?
などと斜に構えた気分にもなるはなったが、美人が友人
にはかまわず、わたしの顔を見てとても興味があるから
占わせてと言ったとたんに構えた気分はどこえやらたち
どころに消え失せ、占ってくださいましとこちらからお
願いしたところ、美人占い師は乱数表のようなものを取
りだし、わたしが書いた生年月日やら生まれた住所、ま
た現住所などを乱数表と照らし合わせ、しばらく、うん
うんと自分で頷いていたが、わかりましたと言って顔を
上げると、過去の人生に区切りがありますが、それは何
年、何年、何年と言って、その区切りの年が石垣島の霊
媒師と同じ年号だった。この美人占い師の見立ての方が
前のことだから、石垣霊媒師が名古屋の美人占い師とお
なじことを言ったのであるがね。そのときもわたしは驚
いて、なんでそんな事わかるのか? とくいさがったが、
運命にでていますとのことだった。
石垣島と違うのはついでに未来をすこしだけ見立てたこ
とである。それによると、この先3年の内に二人の子供
が生まれるという預言だった。
君々、わたしの子供は二人とも大学生だ。わたしもかみ
さんもナイスな大人だ。これ以上我が家に子供が生まれ
ることはないよと言ったが、乱数表をくり返し見つつ、
運命ではそうなっていますと断言した。
見立てが違ってるんじゃないかァ・・・ 
と言いたかったが知らない人に過去を読まれたばかりで
ある。そこで友人が口をはさんだ。友人はすでに
酒が回ってきているようで赤い顔をしていた。
よーしそこまで断言するなら責任もてよ! 
カスヤに子供が生まれなかったらお前がカスヤさんの子
供を生め! 
などと乱暴なことをいった。
美人占い師の見立てた3年はあっという間に過ぎたが残
念ながら我が家の娘や倅に弟も妹も出現していない。
そんなことを忘れかけていた時に石垣島霊媒師にであっ
たのだ。もし未来の見立てが、
あと数年以内に子供が・・・
だとしても、この予測は賞味期限切れだろう。
[PR]
by kasuya_senji | 2009-03-24 17:30 | Comments(1)
親父ギャグ
2009年3月19日

今朝の朝日新聞の天声人語に丸谷才一さんの、

「俺が監督だったらこうするああすると皆がいうが、あ
 れは、自分では投げることはできない、打つことはで
 きない、走ることもできないとわかっているから、せ
 めてそれ以外の監督だったら、ということなんだろう」

という言葉が紹介されていた。けだし名言である。
かっての近鉄バッファローズの本拠地大阪藤井寺球場に
三振凡打エラーのたびにコダマした外野席からのボケ!
カス! ドアホ! やめちまえ! のヤジも監督気分で
発せられたのだろう。
天声人語はそのあとに今日のジャパン・キューバ戦の話
と移るのだが、それはまあいい。すでに試合は終了し結
果は知っているからだ。
ジャパン5;キューバ0。
快勝である。これで今朝までのモヤモヤ気分は解消され
た。こういうのを親父ギャグと言う。まあ、おもしろい
おもしろくないはともかくも、親父がギャグいえば親父
ギャグである。
しかし、サンディエゴのナイトゲームは日本時間では真
っ昼間になるから、ゆっくり観戦することもできない。
さてゲームが始まった。事務所で仕事をこなしながらち
らちらとテレビを観る。初回の表裏が終了しスコアは0
対0。ここまで観て、1時からの打ち合わせにでかけた。
通りかかったタクシーに乗り、銀座までと行き先を告げ、
ラジオをつけてと頼むと野球中継はやっていなかった。
しかたないのでというのもナンだが車中では携帯で仕事
の連絡。銀座の事務所につくと打ち合わせ相手も応接室
でテレビ観戦をしていた。まだ0対0で試合は動いてい
なかった。
打ち合わせがはじまるが一段落つくたびにテレビに戻る。
ジャパンの小笠原がセンターに大飛球を打つ。センター
バックして球に追いつくが落球。2点を先取する。全員
でワオー! と大歓声をあげた。
この日の打ち合わせには旧知の友人である元プロ野球選
手のOさんがいたから、打ち合わせ室はまるでテレビの
解説室のようだった。こんな具合だ。

「わたしがキューバのキャッチャーだったら直球を投げ
 させますね。小笠原は豪打のイメージが強いんですが、
 あいつは膝が柔らかいから変化球には強いんですよ。
 ここはインコース高めのストレートを投げればうちと
 れるでしょう」

と言ってるときにキューバのピッチャーが低めの変化球
を投げ、小笠原が膝を柔らかくつかってセンターに大飛
球を飛ばしたのである。

ジャパンの攻撃が終わり、また打ち合わせに戻り、また
テレビに戻りを数回くり返し、打ち合わせはすべて終了。
この時点ではスコアは2対0。
事務所に戻るためにタクシーに乗ると数寄屋橋の交差点
でデモ隊と鉢合わせ足止めをくらい一向に車は進まない。
岩隈の今日の調子では簡単には失点しないだろうなとは
思うが、なにしろカストロの親衛隊の大砲揃いのキュー
バチーム。あっという間に5点をもぎ取る迫力満々だか
ら、2点じゃ気が気でない。デモ隊はのろのろと進む。
1万2千人のリストラ計画に反対するJR東日本の皆さ
んのデモ行進。参加者はWBCどころではないだろう。
どうぞごゆっくりとと窓をあけて言わないまでも足止め
をくさすことはしなかった。
事務所に戻ってくると4対0となっていたが、すぐ打ち
合わせがはじまり、しばらくテレビはスイッチオフ。
1時間の打ち合わせが終わりテレビに戻ると、追加点が
入ったようで5対0で9回裏が終了し、ジャパーン快勝!
これでイライラが解消された。
どんなにつまらない洒落も3回たて続ければ笑いがとれ
るものですと或る落語の師匠がいっていたと立川談志が
なにかに書いていたけど、解消,快勝をこれ以上続ける
気はないから、笑いが取れずじまいで今週はこれにて。
お後がよろしいようで。
[PR]
by kasuya_senji | 2009-03-19 19:10 | Comments(0)
正夢
2009年3月18日

WBC:日本・韓国戦を見ようと朝早くおき6チャンネ
ルをみればみのもんたがでていた。
あれ!???
今日は放送局が違うのか? 
と4,8,10とチャンネルをかえるが、どこも野球を
やっていなかった。起きたついでに玄関まで行き朝刊を
みて試合は日本時間の午前11時過ぎからだと知った。
でかけるまでにはまだ時間がある。かといってここで2
度寝をすれば寝坊するかもしれない。部屋に戻り本を手
にとり、塩野七生さんの「ローマ人の物語り」を読んだ。
塩野著書としばらくはなれていたせいもあるのか、文体
に馴染めなかった。馴染めないをがまんして読んでいる
とそのうち馴染めるだろう。この人の本はいつもそうだ
からと馴染めないまま読み続けたがいつまでたっても馴
染めないのであきらめて、阿川弘之先生の「食味風々録」
に乗り換えた。
朝飯前の時間に阿川先生の語る美味い物の話だから読ん
でいて食欲が増す。わたしは最近料理好きになったが以
前はそうでもなかった。でも、朝のNHKの今日の料理
という番組は好きで、これを見てそこで紹介される料理、
たとえばトンカツなら今日の昼はトンカツを食うぞと食
欲を旺盛にしたものだ。
ページを適当に開くとうなぎの話が出ていた。うなぎが
食いたくてしかたなくなったけどあいにく家にはうなぎ
など置いていない。そこで、またページを適当にすすめ
るとサンドイッチの話にぶちあたり、サンドイッチが食
いたくなった。なにしろ腹が減っているのだ。キッチン
に行くとあいにく冷蔵庫にハムはなかった。本にはイギ
リス貴族達が愛するサンドイッチはキューカンバサンド
イッチだと書かれていたから、キュウリをさがすとキュ
ウリもなかった。それよりもなにも食パンもなかった。
冷蔵庫の前で腕を組みウーンと唸っていると起きてきた
娘に、なにしてるの? と聞かれたが答えようもなくま
た部屋にもどるが、朝から食欲満点なのはよろしいが食
えなくて情けなくなるのもいかがかと阿川先生とはお別
れし、レーモンド・チャンドラーの「長いお別れ」を引
っぱりだした。若い頃から何度も読んだ物語だが、あっ
という間にフィリップ・マーローの世界に引っぱり込ま
れ、あやうく遅刻するところだった。

事務所で朝の打ち合わせを済ませると日本・韓国戦がい
よいよ始まった。一昨日見た夢が正夢だったかのように、
ダルビッシュがあっという間に3点を取られ、日本の攻
撃はランナーはだすものの拙攻をくり返し、中継ぎがフ
ォアボールを連発し、ジャパンは4対1で撃沈。韓国ベ
ンチに歓喜の渦が巻き起こった。
侍ジャパンは日本を代表する選手を集めているが、勝ち
パターンが一緒なら負けパターンも一緒という昔弱かっ
たころのロッテ球団のようで、いったい強いのか弱いの
かよくわかりませんなあこのチームは。
サッカーイタリア代表チームは勝つときも負けるときも
戦いはいつもイタリアンサッカー・カテナチオで、これ
がイタリア人を熱狂させているのだが、侍ジャパンはこ
れが同じチームか? と思ってしまうほど、負け方が情
けないのだ。昨日は8点とって勝ったが今日は8点とっ
ても負けてしまった。次は投手陣が頑張ればいい。よー
し明日も応援するぞ! という負けの中にも希望は捨て
ないぞというファンの心理をくすぐってくれないのだ。
敗者復活戦の相手はキューバである。攻撃陣は鉄砲と大
砲の戦いである。前回は負けたがその手は2度とキュー
バのやきはまぐりとカストロ親衛隊もだまってないだろ
う。WBC連覇の夢は捨ててないけど、次の試合は勝っ
たらおなぐさみという崖っぷちの戦いになるだろう。

でもこれだけははっきり言っておきます。イチローがこ
れ以上無様を続けるようであれば、勝機ゼロでしょう。
短期決戦シリーズは、不振者はいかに外し、ラッキーボ
ーイをいかに使うかにかかっている。韓国チームは大リ
ーガーだろうが韓国リーグの大打者だろうが不調であれ
ば使わないという戦術に徹底しているから強いのだから
と。
[PR]
by kasuya_senji | 2009-03-18 19:24 | Comments(0)
紫紺の民の会
2009年3月17日

紫紺の民という会から飲み会を開催しますとご招待を受
けた。案内にはこう書いてあった。

日時 3月16日(月)19:30〜
会場 お茶の水の紫紺館椿山荘 6F ラウンジ明治
参加費 6000円 飲み放題

この会は明治大学に縁のある音楽業界関係者の集まりで
すと幹事のK君はいう。
わたしはたしかに明治大学に縁のある音楽業界関係者で
あるが、大学は教養課程の2年間は和泉校舎へ通ったけ
ど、3年4年の駿河台の専門課程になると足が遠のき、
5年目には試験の時に申しわけ程度に顔をだすばかりで、
6年目となれば後輩すら卒業し、大学に行っても知って
いる学生は誰もいなくなった。
こんな学生であったが卒業するに必要な単位のほとんど
は取れていた。数単位を残すのみである。そこで、7年
目の春4月の新学期に決心し、教養課程で残している単
位は「国語」だから、これはさっさと取っておこうと和
泉校舎にでかけ教室にはいると席についていた新入生が
一斉に立ち上がった。講師がきたと勘違いされたのだ。
7年目のこちらはすでに25才。新1年生のほとんどは
地方から来た18才の青年だから、まちがえるのも無理
はない。
まあまあまあ。立ち上がらずにそのままそのまま。
わたしは先生じゃなく君らとおなじ学生ですから。
といいながら一番後の席にすわったが、教室内に失笑が
広がった。これ以降明治大学に行ったことはない。そし
て翌年8年目を迎え、1度も学校に行くことなく在学期
限が切れ自動的に中退となった。
という有り体だから、まあ、その縁のうすいこと。
とても紫紺(明治のカラー)の民という柄ではない。
幹事のK君に、以上の理由を述べ、とても参加できる資
格はないと返事を返すが、カスヤさんの旧知のS氏もA
さんも参加しますからなんとか是非にと乞われ、重い腰
をあげて参加した。

昨日、同じく会に参加するS氏とA君と明治大学に隣接
する山の上ホテルのバーで待ち合わせた。我々が学生時
代からこの場所にある由緒あるホテルだが、もともとは
昭和の初期に政府関係の建物として建てられたが、戦後
GHQに女性専用のホテルとして接収され、アメリカ人
の将校の奥様方に駿河台の岡の上にあるから「ヒルトッ
プホテル」と愛称されたといわれている。昭和28年、
GHQ解体後、民間に払い下げられホテルとして開業し
た時、創業者はヒルトップ=丘の上ではなく「山の上ホ
テル」と名づけた。大正昭和初期のモダンデザイン建築
を今に残す古いホテルで、大学のある駿河台という場所
柄多くの文人達に愛された。読んではいないが常磐新平
の「山の上ホテル物語り」という作品もある。
もちろん、学生時代に利用したことはない。ホテルの玄
関に横着けされる車から降りる人をドアマンが迎えてい
るという風景は、自分にはまったく無縁のものだった。

S氏とA君に、君らが参加すると聞いたから参加するこ
とにしたんだが僕は大学には縁が薄くてねというと、両
名は、僕らはカスヤさんが来るからと誘われたんですが
と顔を見合わせた。幹事のK君のお膳立てに乗っちまっ
たようだな。
ホテルのバーで、パテとガーリックフライドポテトと学
生時代の思いで話をつまみにビールを飲み、時間を合わ
せて会場の紫紺館へ行くと、どうやらこの集まりはたい
がいは杉並の和泉校舎の近くの居酒屋でやっているらし
いが、今度は、わたし、S氏、A君という彼らからする
と大先輩をゲストに迎えての会合にしようという話がで
て、であれば和泉の居酒屋では失礼だろう、では、お茶
の水の明治大学の紫紺館を予約しようとなったようだと
知って、幹事のK君のお膳立てに乗ってよかったかもな
とS氏とA君と顔を見合わせた。
あらためて、参加者の大学時代のこと。
卒業なり中退をした明治大学以後、どういう経緯があり
音楽業界にはいってきたか、また、今はなにをやってい
るのか。という話を聞くと、知らなかっただけで仕事は
完全に繋がっている人たちばかりで、こうして知り合う
ことができたのだから、この紫紺の民の会というのはな
かなかよろしい会じゃないかと思えてきて、薄かった大
学との縁が彼らのおかげですこし復縁したような気持ち
になった。
[PR]
by kasuya_senji | 2009-03-17 17:07 | Comments(0)
ソーセージを買い求めて箱根御殿場へ
2009年3月16日

ひさしぶりの登場のござるのH氏が、某S社OBゴルフ
会で球をあっちへこっちへと飛ばした後で、ソーセージ
を抱えて寓居を訪ねてきた。これはなにかと尋ねれば、
御殿場にある二の岡ハムのソーセージだという。
長谷園の燻製機をこうたよ。
ハム、ソーセージ、チーズ、蛸、烏賊など自家燻製して
食べたら美味かろう。
冷たいビールや冷たい白ワインに合うやろな。
とわたしが言うのを聞きつけ、球転がしの後、ソーセー
ジ持参で訪れたのである。

燻製の作り方。
土鍋の底にアルミ箔をひいて、その上にチップを乗せ、
気持ち深めの土鍋に2段になった金網の、下に設置する
小金網に厚めの食材を、上におく大金網に薄切りの食材
を乗せ強火で土鍋の底を焙る。
3分程するとチップに火がまわり煙が出始める。
そこで、鍋に蓋をする。
蓋をして6分程経つと鍋と蓋の隙間から煙がぽにょぽに
ょと出てくる。
すかさず、煙が外に漏れないように鍋と蓋の隙間に水を
入れる。
入れ終わったらすかさず火を止める。
そのまま20分待つ。
この20分の余熱で食材には火が充分入り、煙は充満し、
みごとに燻される。

結果は上々だった。
まあ、ソーセージの美味いこと美味いこと。
どこかで買うスモークソーセージの数百倍は美味かった。
スモーク蛸も良し。
スモーク烏賊も良し。
スモークチーズも良し。
で、みるみる白ワインが1本空いた。
美味い勢いはおとろえることなく白ワインでは足らず赤
も1本空いた。
それが1週間前のこと。
ござる氏が持ち込んだソーセージを調べて見ると二の岡
ハムは、昭和の初期に御殿場を避暑地として発見したア
メリカ人がそこに住み着き、牧場を経営し、牛を育て豚
を育て豚肉をソーセージにして売り出したのが始まりと
いわれる。昭和の初期のことだから科学的な添加物はな
い時代だから、それらのものは一切つかわないという製
造方法で、今も守られている。
昭和の中期になると世界をとりまく状況が不穏になり、
日米開戦間近となり、牧場主のアメリカ人は故国に帰る
べく御殿場を去るが、当時のハム職人が跡を継ぎ、戦争
を生き抜き、牧場を守り抜き、製法を守り抜き、当時の
ハム・ソーセージそのままの味が現代に生き残るのであ
る。
このソーセージはネットで買えるが工場というか二の岡
ハム屋の姿を見たくなって昨日の日曜日にドライブがて
ら箱根峠経由で御殿場に行ってきた。
芦ノ湖から仙石原を抜け、乙女峠を越えればあとは御殿
場まで1本道の間違えようのない道だが、どういうわけ
か道をよく間違えた。右に曲がるところを左に曲がり、
左折するところを右折し、そのたびにUターンを繰り返
した。この道は、子供がちいさかった頃毎年のように元
箱根、宮ノ下、強羅、小涌園、大湧谷、芦の湖畔、仙石
原とでかけた衆知の道なのだが、あっというまに記憶は
消去されたらしい。まあ、芦の湖畔の1本道は休日の午
後はかなり渋滞するから、それを避けるために当時は通
らなかった箱根新道やら芦ノ湖スカイラインなどを利用
したから出入り口が不案内だったのだけどね。
それとも、毎日入ってくるスパムメールを消去しまくる
から、デリートの神様が怒ったのかもしれんな。
たどり着いた二の岡ハム屋は畑に囲まれたおおきな農家
で、そこにちいさなハム工場が建っていました。
で、時間はかかったが首尾良くソーセージを手に入れた
わたしはこんどは燻製ではなく蒸し器で食してみました
ところ、橙のポン酢とゆずのポン酢とミツカンポン酢と
カツオダシを調合し薬味に摺り下ろニンニクを入れたつ
けだれが大正解で、ピンポーン! と大当たりでありま
した。 
風呂上がりの冷たいビールから始まり、あっというまに
白ワインが空き、ワイン無き後はよせばいいのにウオッ
カソーダまでかっくらって(飲むのに食らうはなかろう
が)今朝の早朝5時から始まるWBC、ジャパン:キュ
ーバ戦を観るために早々と寝たのであります。
朝目が覚めたとき、どういうわけかダルビッシュが投げ
ていて9対1で負けている夢を見ていた。はたして正夢
か逆夢か。侍ジャパンの戦いやいかに。
ちなみに、めぼけまなこで朝刊を読めば今日の運勢は、
人の言うことを素直に聞き商売繁盛、となっていました。
なんのこっちゃ。
[PR]
by kasuya_senji | 2009-03-16 13:48 | Comments(1)
ロッド・スチュワート ライブ
2009年3月12日

昨年の秋だったか冬だったか。
ロッド・スチュワートが来日します。チケットは申し込
みますか?
と尋ねられ、その場で手に入れてくれ! と即答した。
ロッド・スチュワートはスコットランド出身のボーカリ
ストで、ギタリスト、ロニー・ウッドと組んだフェイセ
スは1970年代の僕のヒーローのバンドであり「マギ
ーメイ」や「セーリング」は永遠の名曲である。
フェイセスを解散し、ロニーウッドはローリングストー
ンズに。ロッド・スチュワートは単身アメリカに渡った。
その時に発表したアルバムが「アトランティック・クロ
ッシング」で、
わたしは航海する。大海原を自由をもとめて。
わたしは飛行する。鳥のように自由に。
と歌った「セーリング」はロックバラードでありながら
ロッド・スチュワートのミュージシャンの人生そのもの
の歌だった。
民主主義のイギリスであったが1970年当時のイギリ
スには前時代の階級社会が根深く残っていたし、日本も
戦後処理時代からは脱却しつつあるもののアメリカへの
依存度=支配度はまだまだ高く、我ら若者は旧価値観に
も縛られていて、自由を謳歌しているという空気とはほ
ど遠かった時代でもある。この歌の意味が自分の人生そ
のものでもあったのだ。そして、あのしゃがれたボイス
で「鳥のように自由に」と謳われた日にゃ、心の奥底ま
で染みこんできたものでした。

ところが、アメリカに渡ったロッドスチュワートはわた
しにはただのロックスターに成り下がったように見えま
した。有名人とつき合い、スーパーモデルと浮き名を流
し、持ち上げられればられるほど誰かに利用されている
ことが透けて見え、衝撃的だったあの髪型もヒョウ柄の
衣装も時代が変われば一番最初に古くなり、偏見だとわ
かってはいるものの、イギリス時代のミュージシャンと
しての輝きがまったく失われたように見えました。
どんなにヒット曲を飛ばしても、いや、飛ばせば飛ばす
ほどあの好きだったロッドスチュワートからロッドスチ
ュワート自身が遠ざかって行くようで、「マギーメイ」
も「セーリング」も思い出の片隅に追いやられたまま、
わたしの中で彼の存在は過去の人となっていったのです。

ところが、(2回目です)ヒットに恵まれなくなって鳴
りを潜めていたロッドスチュワートは、アメリカを代表
するプロデューサー:フィル・ラーモンと出会い、フィ
ルのプロデュースによる「ザ グレイト アメリカン 
ソング」で見事に復活を果たします。
グレートアメリカンソングというのは、1930年代4
0年代にヒットした永遠の名曲群を指します。ミューヨ
ークのティンパンアレーという通りに小さな音楽出版社
が軒を並べ、若手の作家を集め、映画会社やミュージカ
ル製作会社からの曲の注文に応え、次から次へ新しい曲
が生み出されていました。
その中から天才少女ジュディー・ガーランドの「オーバ
ー ザ レインボウ」は生まれ、若きコール・ポーター
は「ナイト & ディ」「ビギンザ ビギン」を作曲し
ました。今でも世界中で愛されている歌の数々がこの時
期に集中して生まれたのです。これらがグレートアメリ
カンソングといわれるスタンダードナンバーなのです。

音楽の世界では19世紀末にクラッシックの天才が輩出
されました。
20世紀に入り30年代〜40年代には今もなお愛され
ている黄金のナンバーが輩出しました。
そして、60年代にはビートルズを始めとするすばらし
いバンドが輩出されました。
この約100年の世界の音楽の歴史の中でこの3つを超
えるムーブメントは起こっていないのです。
プロデューサー:フィルはこの楽曲の宝の山に目をつけ
ました。あの声でこの歌を歌わせたらと。目のつけどこ
ろがシャープでした。そして世界を代表する名曲の数々
がロッド・スチュワートの声により現代に蘇ったのです。
その歌を歌うロッド・スチュワートは、スコットランド
出身のカッコイイバンドのボーカリストではなく、アメ
リカに渡ったロックスターではなく、歴史に残る歌を歌
う最高のボーカリストとして音楽界に君臨したのです。
それはロッド・スチュワートの生涯の最高セールスをこ
の「グレート アメリカン ソング」で記録したという
ことで証明されています。ここ数年間、わたしが最も聴
いたアルバムのひとつがこのシリーズなのです。
だから、ロッド・スチュワートが来日すると聞いたとき、
わたしは一も二もなくチケットをお願いしたのです。

ところが、(3回目です)武道館に行ってみるとグレー
トアメリカンソングからは1曲も選曲されていませんで
した。大昔のヒット曲ばかり歌っていました。見事に裏
切られてしまいました。こんなに裏切られたのはかって
憶えがないほどでした。
一緒に観に行った若いJ嬢は昔のヒット曲ばかりやるん
じゃないかと思ってたというし、一緒に観に行ったTさ
んもSさんも思惑外れだったことは同じだったようだが、
それでもショウを充分楽しんだようでした。
客席を見わたすと昔のヒット曲で昔流行ったような踊り
で身体をくねまわしてる中年のオッサンがいました。
腰のあたりにたっぷりと肉をつけたかっての若い女性が、
ステージに手を振りながらウエルカム・ロッドに一役か
ってました。
よく考えてみれば、今のアメリカン グレート ソング
だけのロッド・スチュワートを望んでいる人はそういな
いのかもとステージを観てる途中で思いあたりました。
つまり、マギーメイもセーリングもトゥナイトもやらな
いロッドなんてありえないんだろうと。
そう思うと、思い込みだけを勝手に突っ込んだ自分が、
武道館の中でひとり浮いているようにも見えて来たので
す。それで、本位ではないがかってのヒット曲を楽しん
でみるかとハンドルを切ってみると、それはそれで青春
の名曲カムバックであり、もし自分の期待通りのライブ
だとしたらマギーメイもセーリングも永遠に生で聴くこ
とができなかったのかもしれないと考えれば、ギタリス
トの男の暑苦しさは余計だったけれど、サックスプレー
ヤーの姐さんのミニスカートは際どく色っぽく、バイオ
リンの姐さんもご愛嬌で、この裏切りは悪い後味ではな
かったというのが昨夜のロッド・スチュワートでした。
[PR]
by kasuya_senji | 2009-03-12 16:07 | Comments(4)
東京マラソン−2
2009年3月11日

そのころYは大阪の老舗の呉服屋の東京銀座支店で働い
ていた。田舎から同級生が進学、転勤、東京旅行にと上
京する度、案内係をかってでてくれていた。デズニーラ
ンドはまだなかったころだから、若いYが同級生を案内
するのはもっぱら銀座、浅草、皇居あたりだった。
Yはほどなく大阪の本店にもどることになるが、銀座店
当時は下っ端の下っ端。忙しくもあったが重要な仕事を
まかされてるわけではなく時間も自在がきいたから、た
まには小石川の学生寮に住んでいたわたしを訪ねてきた
りした。この寮は三河地方の高校卒業者が住む寮で、Y
がくれば中学、高校の仲間があつまりワイワイとおそく
まで語りあった。貧乏学生の時代だったから酒など飲み
明かした記憶はない。ジュースもない。ただただ語りあ
う話だけが主役だった。
Yは大阪の本店にもどってからは仕事の合間にコンサー
トを観に行けるくらいの余裕はでたようで、昨年、長年
持っていたけどもう使わないからと当時買ったアルバム
やコンサートのパンフレットを進呈してくれた。レッド
ツェッペリン、シカゴ、カーペンターズ、ママス&パパ
スなどレコードが数十枚、呉服屋らしく風呂敷に包まれ
ていた。このレコードはYからもらったんだと大野君に
言うと、Yはあげたんじゃない預けただけだと言いはる
ので、返却不用の預かり物として手元においてある。

マラソンコースは日比谷通りを品川に走り、15㎞を過
ぎるとUターンし再び日比谷通りを晴海通りまで戻ると
中間点になる。タイ君はリタイアか救急車の世話になっ
ていることだろう。勝手ながら、これからの実況中継で
は登場しないことにする。
中間点を過ぎたコースは北へと浅草に向かう。
途中の柳橋の近くには天ぷらや「大黒屋」がある。
柳橋芸者衆華やかなりしころの旅館を改造した天ぷらや
で、その風情のよさに目をつけたCMディレクターに騙
されるように口説かれ、その店の頑固な親父がテレビに
登場したことがある。いつものように穏やかながら威厳
に溢れた顔で登場していたが、親父に言わせると、なー
にただ機嫌が悪かっただけですとなる。天ぷらをあげる
親父の前のカウンターに座った中山美穂嬢がビールを一
口飲み、いつものように上唇にひげのように泡をくっつ
けたままいかにも美味しそうな表情をするキリン一番絞
りのCMである。
我が家の子供がちいさかったころ、わたしにすすめられ
てかみさんがビールを一口飲んだ。そのときに泡が上唇
にくっついていて、娘におかあさん中山美穂にそっくり
といわれたが、かみさんは似てないわよー、あんなにき
れいじゃありませんと方角違いの否定をした。

浜町を過ぎるあたりの隅田川の西岸には居酒屋「山利喜」
がある。この店も大正末期、昭和初期に開店した店で下
町では名が鳴り響いている。夕方5時の開店に間に合わ
ないと延々と席が空くまでまたなければならないほど繁
盛している。この店の名物は煮込み。モツを味噌で煮込
んだものだが、ハイカラで味付けにはデミグラソースが
たっぷりとつかわれている。煮込みを頼むとかならずガ
ーリックトーストを注文し、のこったソースをパンにつ
けて食ったならもうこの店はわすれられないものとなる。
4つの大鍋の煮込みが売り切れると店は閉店。
雷門にぶつかるとランナーはUターンし江戸通りをふた
たび南下。ランナーは南下するがここはいったん雷門に
停車してみよう。雷門の左手にいまどき1960年代の
ダンスミュージックばかりをかけている妙なディスコが
ある。そんなに大きくない店内で昔のように客がフロア
ーで同じ振り付けで踊るのである。この店のオーナーは
わたしの後輩の同級生で浅草生まれ浅草育ち。客筋はほ
とんどが地元浅草の人達で老いも若きも同じ振り付けで
踊っている。週末となれば店は客で立っている場所もな
いくらいごった返している。ちなみに、酒をサービスす
るバーテンダーの修行がまだ甘いから飲む酒はビールか
シャンパンが一番無難だとオーナーがこっそり教えてく
れた。

さて晴海通りまでもどるといよいよ築地、佃にコースは
すすむ。佃島のとなりの月島はもんじゃ焼きが有名だけ
ど、わたしは月島にラーメンを食いにいく。町田の有名
店「69n Roll ラーメン」の嶋崎氏がプロデュ
ースする店で、ブタの骨を沸騰させずにダシをとるから
豚骨醤油味といえどスープは透き通っていて、この店に
しか出せないすばらしい味となっている。麺も自家製麺
で、ラーメン界の巨匠佐野実氏が全部たいらげた後、う
ーんと唸ったと言われている。ついでながらチャーシュ
ーが絶品。味付け玉子が絶品。月島駅徒歩2分のところ
にある。店の名は「月島ロック」。オーナーはわたしの
友人のN君。N君は今はこの店と同じく月島にある「月
島カフェ」を経営しているが、本業はオモシロイ物なん
でもありのプロデューサーで「勝手に観光協会」なるも
のを勝手にぶちあげ、三浦じゅん氏とともにゆるキャラ
を世に送り出した仕掛け人の一人である。

すでに35㎞地点を通過した。先頭は瀬古か高橋尚子か
アべべか。はたして誰がレースを制するか。興味はその
1点だが、最後の勝負所40㎞地点にはかってIRC2
スタジオがあった。このスタジオが設立されたころ。有
明は倉庫以外はなにもないだだっ広い原っぱだった。
レインボウブリッジもなければもちろん東京マラソンの
最終地点であるビッグサイトもなかった。1980年代
90年代と日本中のだれもがより良い未来が来ると信じ
切っていた時代だった。当時の副都心計画は実行され完
成間近だけど、今をとりまく現実は、かって見た夢とは
随分違う世界が広がっているように見える。

どうやら先頭ランナーがゴールしたようだ。
優勝者は2時間10分あたりで完走したようだが、都庁
前から始まったわたしの東京マラソンは数十年の時間が
経過したようだ。今年の中継はこれで終了します。
[PR]
by kasuya_senji | 2009-03-11 12:54 | Comments(0)
-東京マラソン
2009年3月10日

飯を食おうと知り合いのやっている店にひさしぶりに顔
をだすと、エントリーされちゃいましたよ! とバーテ
ンダーが言う。

「なんのエントリー?」
「東京マラソンです」

バーテンダーのタイ君はジョギング好きで、店に来た客
のジョギング話に加わって、盛り上がって、では東京マ
ラソンに参加しようと話はさらに発展し、その人達と一
緒に参加申しこみをしたところ、自分だけエントリーさ
れたのだという。30万人にものぼる応募者の中の当選
者の3万人のひとりに選ばれたのである。名誉なことで
ある。名誉なことであるが、

「東京マラソンは3月22日ですから、23日から1週
 間ほどは足腰が立たず店を休むかも知れません」

と不名誉なことも言っていた。
東京マラソンは新宿の都庁前からスタートする。
スタートしてすぐのところに、かって住んでいたアパー
トがある。名前はけやき荘アパート。けやき商店街の奥
にあったからそういう名前だった。4畳一間で家賃は月
8000円、共同便所、共同ピンク電話、風呂なし。
1階に4部屋、2階に6部屋のちいさなアパート。陽当
たりは極悪く、隣や裏のアパートには夜の新宿で働く水
商売のお姉さん方、そういう姐さんが働く店からショバ
代をいただく下っ端のヤッサンなどが住んでいた。
当時は学生でありながら、今は高輪プリンスホテルに変
わってしまった高輪ゴルフ練習場で働いていた。その後
縁あって音楽業界へ。このアパートにいたころは人生は
まだ始まっていないころだった。

アパートを通過したマラソンランナーは靖国通りに入る。
タイ君もまだまだ元気だろう。市ヶ谷見つけにさしかか
る手前の坂を左に上がったところに中学の同級生の大野
君が住んでいたアパートがあった。6畳一間風呂なし。
一足先に上京した大野君は四谷三丁目にあるセツモード
セミナーに通っていた。工業高校をでた大野君はデザイ
ナー、イラストレーターになりたかったんだろう。当時
のセツモードセミナーには川村都、堀切ミロ、峰岸徹な
ど若くしてファッション、デザイン、イラスト業界に新
風を巻き起こした人材がごろごろいた。他にはミュージ
カルプロデューサーを目指す者、役者をめざす者、非商
業劇団を主宰したい者、とモードセミナーという名前と
は別にカルチャー、サブカルチャーの担い手となる人材
予備軍の宝庫であった。アメリカで大ヒットしたミュー
ジカル「ヘアー」が日本で公開されることになり、募集
された出演者に大野君がいた。これをきっかけに大野君
は音楽への道を歩き始め、ヘヤーで競演した堀内誠と組
んだバンドが「ガロ」だった。わたしがこのアパートを
訪ね朝まで話し込み泊まっていたころはまだガロ以前の
ことで、大野君も今の人生がスタートする前のことだっ
た。

市ヶ谷を過ぎマラソンランナー、タイ君だ、達は外苑東
通りに入る。西神田を右に曲がりコースは内堀通りに入
ってゆくが、西神田あたりの思い出は学生時代の賭け麻
雀屋に入り浸っていたことばかりで、駿河台明治大学で
の思い出は希薄である。国立大学に行かせる金しかない
ぞといわれていたが、私立大学にしか合格できなかった
息子を叱ることなく両親は貧しい家計から大学に行かせ
てくれたというのに、当の息子のわたしは学校にも通わ
ずバイトに明け暮れ、バイト先をしくじると学校を訪ね
友人を麻雀に誘い、勝った負けたでその日を暮らしてい
た。上京して早6年が経っていた。そんな状態では両親
に会わす顔もなく、実家にも帰らず、連絡も絶えていた
時代だった。おふくろは、便りがないのは元気な証拠と
気丈だったらしいが、もしわたしたちの息子が遠く離れ
た町の大学に行っまま後6年も連絡がないとしたら、う
ちのかみさんはどんなに悲しがることだろう。

ランナーが内堀通りを南下して日比谷通りに入るころは、
タイ君はかなりヘロヘロになっていることだろう。すで
に歩き始めているかもしれない。沿道のバナナばかり食
っているんじゃないじゃろか。道が銀座にさしかかると
同じく岡崎の中学の同級生だった呉服屋のYが修行した
店がある。Yが宿直の時に訪ねていくき、店の奥にある
1畳ばかりの畳にひとつの布団をひいてふたりで泊まり
込むのである。そのころYは・・・
と、ここまで書いて時間がなくなった。
まだ、10㎞しか走ってないけど今日はこれまで。
マラソンは明日に続きます。
[PR]
by kasuya_senji | 2009-03-10 16:22 | Comments(1)

 
Copyright ©1997-2007 Excite Japan Co.,Ltd. All Rights Reserved.
免責事項
- ヘルプ - エキサイトをスタートページに | BB.excite | Woman.excite | エキサイト ホーム