2013年7月16日。午後7時30分。
デゼンターノ デガルダ アストリアホテル。
チェックインした時、ジュリもダビデもまだスタジオか
ら帰ってきてなかった。
イタリアも英国と同じく建物の階の数え方は1階はGF
で2階は1F。二人も乗ればそれで満員という極小のエ
レベーターと云うよりリフトという言い方が似合う可愛
らしい昇降機で3Fの4階の310室にあがった。広い
ルーフテラスのある最上階の部屋だった、
スーツケースからスーツを出し、トランクからポロシャ
ツ、Tシャツ、半ズボン、セーター、ストール、下着、
洗面道具、携帯充電器セット、常備薬、靴を取り出し、
すべての荷物を片付けて、ダビデやジュリが帰ってくる
までベランダで本を読んだ。
塩野七生の「イタリアからの手紙」を取り出すといろい
ろ面白い事がかいてある。
◎ローマの蚊とネズミ対策の話。
ローマで或る夏に蚊やネズミの被害が大きくなった。市
議会で討論がなされ、あれやこれや議論され、一人の議
員から下水道の清掃をしたほうがいのではないかとの発
言があり、それをきっかけに、前に掃除をしたのはいつ
の事だったかと調べると、皇帝がいなくなってからは一
度も掃除されてないのがわかった。
西ローマ帝国が滅びて以来一度も掃除されていというの
である。4世紀に西ローマ帝国は滅びるのだが、それ以
前も帝国は安定せず内憂外患の時代が長く続き、歴代の
皇帝は下水道の掃除どころじゃなかったのだろうから、
たぶんというかきっと、初代皇帝アウグステゥース以来
一度も掃除した事がないのだろうと思われた。
そこで市議会は2000年も掃除されてないんじゃなに
もあわてて今掃除しなくてもとなり、ローマは相変わら
ず蚊とネズミに悩まされている。
◎ベニスの貴族出身の女性のウーマンリブの話。
「わたし、アメリカのウーマンリブには同情していたの。
1週間に1回土曜日の夜だけじゃなくもう少し多くし
てくれと要求してると思ったらそうではないんですっ
てね。それに1週間に1度はストするんですって。哀
れな人たちだこと。でもアメリカの次にウーマンリブ
が盛んなのは日本ですってよ。日本の女は男に何を要
求してるわけ?」
「わからないわ。多分2週間に1回をせめて1週間に1
回にしてくれと要求してるのだと思うわ」
「あら。それは深刻だわね」
そろそろダビデとジュリが帰って来る時間だろうと読書
を切り上げ、フロントの横のバーカウンターがある応接
ソファーのあるところでダビデ、ジュリ、エリカ、ヤー
スカと全員そろってプロセッコで祝杯をあげよう。その
後、町へ出て食事をしよう。
と鞄から財布の入ったポシェットを取り出そうとして初
めて失せていることに気がついた。
!!!!!!!!! じぇじぇ!
あわててエリカに電話すると「あらそれはタイヘン!」
とマルコ、ミラノのテーラー、アレッサンドラ、タクシ
ー、ランチしたレストラン、カフェと今日行った所のす
べてに連絡しますと言ってくれたが、自分としてはスー
ツをオーダーしたミラノのテーラーに忘れて来たのだろ
うという気がしてた。自分でお金を払ったのはそこだけ
だったからだ。店の最後を再現すると
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支払いの時に鞄からポシェットをとりだした。
財布をとりだそうとしてポシェットに一緒に入っていた
パスポートケースが邪魔でとりだしにくかったのでパス
ポートケースを鞄のポケットに移し、財布をとりだし財
布からアメックスをだしてカードをアレッサンドラに渡
した。奥に引っ込んだアレサンドラがカードの明細伝票
をもって戻って来て、支払明細書にサインをし返しても
らったアメックスと明細書のコピーを財布にしまった。
その財布をポシェットにしまった。
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そのことははっきりと覚えている。つまり、ポシェット
はそこにあったのだ。
エリカがマルコに電話して、マルコがアレッサンドラを
追っかけて、やっとつかまったアレッサンドラから、ポ
シェットの忘れ物はなかったが念のため明日の朝一番で
店に行き調べ直してみると言ってくれてるとエリカから
連絡がきた時、すっかりへこんでしまった。
物事を進めるときに1から10までの手順があるとすれ
ば、最初から最後まで怠りなく自然に流れるように手順
をこなせるよう訓練し、そうできるようになったのだが、
いつの間にか、できるものだと思い込む癖がついて、無
意識の中でも確認するという手順を飛ばすようになって
きてしまってるようだ。弛んできたのだ。
このことは自覚しなければならない。
冗談ではないが、こどもの頃父親に
「センジ! お前は自覚が足りない!」
としょっちゅう叱られたが、今だにそうだったんだ。
財布をポシェットにしまったのは覚えてるが、その先の
ポシェットを鞄に戻したかは、いきなり記憶が薄れるの
だ。戻したに決まってるでしょとしか言えない自覚のな
さに来る物が来たかなと思った。
プロ野球選手は芯でとらえたボールがスタンドに届かな
くなったと引退するが、私は若い頃あんなに苦労して身
につけた独特の記憶術が弱まって来てることに無自覚だ
ったのだ。
20年肌身離さず大事にしたシルバーのチェーンがつい
たクロムハーツの財布は惜しいけれどまた買えばいい。
それよりも自分の行動に無自覚であったことに強いショ
ックを受け、フロントまで降りてゆくとダビデとジュリ
が最敬礼で出迎えてくれた。
ブルーな気分は名古屋場所で大勝ちした栃煌山のように
思いっきり左上手でぶん投げて夕食にでかけた。
さあ、いよいよジュリのボーカルレコーディングの日々
が始まるのだ。