忠臣蔵
1996年の9月に文芸春秋社から出版された司馬遼太郎著
『この国のかたち・六』に、日本の近世封建社会のことが書
かれていて、例題として、幕末の長州藩のことが出てくる。
「長州藩士」といういい方そのものが法人的で、たれも「毛
利大膳太夫家来」とは名乗りません。これが、そのかみの元
禄忠臣蔵のなかで「浅野内匠頭家来大石内蔵助」と名乗った
時代から見れば、幕藩体制の組織感覚が、その間に質的変化
したことをおもわせます。(司馬遼太郎)
と、そこに忠臣蔵にふれている。そして、仇討ちに参加した
侍身分でない者(四十七士には加えられていない)の、その
後の話に展開し、元禄と幕末の封建社会の違いが具体的に述
べられるのですが、それは、司馬さんの本を読んでください。
その「浅野内匠頭家来大石内蔵助」によって仇討ちがなされ
たのが、約300年以上前の今日の未明のこと。折しも雪が
降り続き、その出来事を舞台劇のように劇的に印象づけてい
る。
僕の父方の祖父の出身地は、仇打たれた吉良上野介の領地で
あった三州吉良で、歌舞伎や芝居では悪役の吉良上野介も大
名としての素顔は、民政家で領地民にはとても良い殿様でだ
れもが殿様を慕ったという。ちなみに京都から東は三河あた
りまで、殿は様ではなくトノサンとさん呼ばわりされる。
今ではどうか知らないが、祖父が生きていた昭和20年代の
末頃までは、忠臣蔵は芝居であろうと映画であろうと愛知県
幡豆郡吉良町では、かからなかったそうだ。
親父が上京したおりに、「どこか見物したいところがあれば
つれていくよ。皇居なんかどうだい」と聞くと、泉岳寺に行
ってみたいという。あの話は嫌ってたんじゃなかったのかと
いうと「あれは親父の(祖父)の話だ。俺は、天下を盗って
から岡崎衆をそまつにした家康が嫌いだ。そんな奴が住んで
いた江戸城なんかは見たくもない」と忠臣蔵より古い話を持
ち出しよったが、理由は明快であったので、親父とお袋をつ
れて泉岳寺に詣でたことがある。
討ち入りの季節ではなかったが、訪れる人の手によって四十
七士の墓は四十七士分の線香がもくもくと焚かれていて、ス
テージで使うスモークマシンよりも煙がもうもうとしていた。
四十七士の墓地は泉岳寺の山門を入って左の高台にあるが、
なにやらそちらの方面で火事がでているが如きであった。
そういえば、討ち入りの衣装が当時の火事装束であったこと
も線香の煙から連想してしまった。
「風さそふ花よりもなお我はまた春の名残をいかにとやせん」
の浅野内匠頭の辞世の句碑の前でたたずんでいた両親の姿が
思い出される。
内匠頭切腹の後、髪を下ろし尼となってひっそりと生きた揺
泉院(内匠頭奥方)が自宅の庭で大切に育てた梅の木が、揺
泉院亡き後、泉岳寺境内に移された。その梅の古木に白と赤
の梅の花が咲いていたから、訪れたのは、浅野内匠頭が世を
去った季節と同じ早春のころだったように思う。