2007年6月18日
かみさんと娘を待っている間に読んだ池波正太郎はその
エッセイで、最近の(最近といっても10年ほど前に書
かれた物ですが)日本映画はツマラン! と一刀両断に
切り捨てていました。
池波さんは浅草生まれ。当時は普通の家庭の子は中学と
か高等学校(大学予備門)とかに行かず、小学校を卒業
すると働きにでたものでして、池波さんも小学校をでる
と兜町に勤めた。今で言う証券会社勤めなんでしょうが、
当時の言葉では株屋といわれていました。
浅草生まれということもあり、演芸、芝居、特に新国劇
には子どもの時分から慣れ親しんでいました。長じて、
戦争で兵隊に取られ終戦で戻ってきたころは株屋の仕事
がないというので、役所が募集していたDDTの散布要
員に応募し職を得て、そのまま数年間役所仕事をし、東
京都の職員となりました。もちろん、芝居、新国劇には
興味を持ちつづけ、書いた舞台脚本をどこかに送ったこ
とがきっかけとなり、都職員を辞め新国劇座付きの芝居
作者、演出家として長谷川伸に師事し、その後、作家に
なった人ですから、演出には一言も二言も持っていまし
た。現に池波正太郎の映画批評は面白く、かなりするど
い視点で書かれています。
その池波氏がツマラン! と云うのは、最近の映画作家
は、監督と言い換えた方がいいでしょうが、映画の世界
というあまりにも狭い世間でしか物を見ていないという
ことでした。
カネルの「天井桟敷の人々」は3時間を超える作品で、
事務所で仕事の合間に観ていましたから一気に観ること
が出来ず、やっと今朝見終わったのですが、先日も申し
上げたように、生きとし生きる人々の心一点を見つめき
って描かれていました。結末が、誰も悲劇に終わるとい
うものあまりにも人間的でありました。悲劇だから人間
的と言っているのではありません。べつに悲劇で終わろ
うと喜劇で終わろうとかまわないのです。
カネルは、主人公の一人に、その恋の主役が私(庶民)
であれば悲劇でしょうが、別の男(貴族・伯爵・あんた
だよと暗に云ってます)であれば喜劇でしょうと言わせ
ている。つまり、悲劇であろうと喜劇であろうと、おか
れた環境の中で生きてゆく人間の視点の違いにしか過ぎ
ないのですから。要は人間が描かれているのかどうかで
す。
池波さんの論説を拝読して(かみさん・娘の買い物の時
間待ちに読んでいたに過ぎないから拝読とは言いかねる
が)その通りだ! と心から叫んでしまった。
いったい、現代ほど人の心が分かりにくくなっている時
代はないというのに、それを描こうとしない。それを描
ききる視点を持っていないから、愛だ恋だアニメの映画
化だ漫画の映画化だと商業主義丸出しで何億もの金がつ
ぎこまれるばかりで、最大の主題である失いゆく人間性
を正面切って捉える作品が皆無である。
映画産業である前に芸術ではないのだろうか。
上海で、規制が多くてなかなか上映されない日本映画を
一挙に上映する映画祭が、日中国交30周年企画で行わ
れたが、エントリーされた作品を見る限り、たのむよー、
それだけは紹介しないでー、という作品ばかりであった。
先人の後生に残した賢言を自分のこととして捉えなけれ
ば、退化はあっても進化にはほど遠いものになるだろう。
池波氏と同じく映画好きとして、今日はボヤキまくらせ
ていただきまして、ちょうど時間となりまーした。
お後がよろしいようで。