2008年6月12日
昨夜、年来の友人のANB氏と近況を語らいながら夕飯
食って家に帰ると鍵がなかった。きっと事務所のデスク
の上に置き忘れたままにしたんだろうとさほど心配しな
かったが、今日会社に来てデスクに鍵がころがっている
のを見つけ、心から一安心。
蝉時雨の最初の1章:朝の蛇に、何度も読んだ本なのに
初めて気がついた箇所があったと書いたが、それは、主
人公を中心に十五、六歳の三人の若者が登場したときか
ら、その別れが示されていたという事に気がついたので
ある。
最近になって二つの集まりがあった。一つは中学の同級
生の仲間との集まり。もう一つは大学の同級の仲間との
集まり。どちらも同級会というものではなく、仲良かっ
た者同士が顔を揃えたという私事であったが、こうして
何十年もの時を経て今だに俺お前で呼び合える関係をと
てもいとおしく感じたのである。
そのいとおしさは、それぞれは学校を卒業すればまった
く別の道を歩いてきたわけで、その過ごしてきた別々の
道が彼等を大人にし、それぞれの人生が即かず離れずし
かし今にからみあい、まるで自分が何者であったかを証
明するかのような邂逅であり、かけがえのないものに思
えたからである。
蝉時雨の仲間同士の「別れ」は青春との別れである。
仲間、恋、友情をもって青春は始まり、その別れととも
に人生が始まる。自分自身は蝉時雨の主人公:牧文四郎
のような立派な人物ではないが、僕の友人達は文四郎の
人生を彩った小和田逸平であり島崎与之介であるように
感じられるから、この「蝉時雨」が青春の名作と云われ
る所以はそこにあるのだろう。